| 今から70年も前に長湯温泉を「日本のドイツ・カルルスバード」として紹介しようとした人物がいました。彼の名は、御沓重徳。 明治33年に直入の裕福な農家の長男として生まれました。父・蔵人は村長や郵便局長も務めた名士で、重徳氏もまた、長湯温泉をこよなく愛し、もっと多くの人に知らしめたいと願っていました。 昭和8年に作られたパンフレットには 「東方日本の長湯温泉 西方ドイツのカルルスバード」と詠われた。 ![]() |
故・御沓重徳氏![]() |
|
昭和2年の記念写真より![]() |
||
そんな御沓氏の前に現れたのが、九州帝大(現・九州大)の松尾武幸博士です。 松尾博士は、ドイツのカルルスバードで温泉治療学を学んだ後に、長湯温泉を研究の地に選びました。 御沓氏は毎日のように松尾博士の温泉研究所に通い、博士の研究を手伝いました。 それは、「ドイツの温泉療法のように薬効の高い長湯温泉が実証されれば、長湯の名声も広まるだろう」という郷土への熱い思いからでした。 自身が経営する旅館には、ドイツ建築の共同浴場「御幸湯」を建設し、昭和8年に有志とともに「長湯温泉協会」を設立。はじめてのパンフレットや絵葉書を制作。福博展覧会では、PRの為に毎日会場まで長湯の湯を運んだと云います。大きな夢に向い、私財を投じる事にも躊躇しませんでした。 |
故・松尾武幸博士![]() |
|
| 昭和八年七月十八日、長湯温泉は歴史的な日を迎える。 九州帝国大学の松尾武幸博士と長湯温泉との出会いの日が訪れたのである。 一足先に長湯を訪れた門司鉄道病院の気賀澤副院長と村田博士から、長湯温泉の炭酸ガス濃度の高さを知らされた松尾博士はその足で長湯を訪れたのであった。 九大の別府温泉治療学研究所に席を置き、ドイツのカルルスバードで温泉治療学を学んだ松尾博士は、だれよりも長湯の炭酸泉を喜んだ。 博士の調査により 「長湯温泉は世界稀有の合銀炭酸泉で、含有量千分の二・五あり、四十二度の温泉である」ことが判明した。 当時、温泉治療学に百年の歴史をもっていたドイツでは、このころすでに炭酸泉が心臓病や脚気、神経衰弱に効果のあることを臨床データにより知っていた。 これを日本で実証する機会を得た博士は長湯での研究に着手するのである。右の写真はうさぎを使った動物実験。たすきをして助手を務めるのは、まざれもなく御沓である。 もちろん、療養のために長湯を訪れた患者のデータも蓄積された。 そして、研究ののち博士は長湯温泉を讃える歌をこう残す。 『飲んで効き 長湯して利く 長湯のお湯は心臓胃腸に血の薬』 博士や御沓の招碑により長湯を訪れた研究者はそのすばらしさに一様に驚きを示す。 当時の日本温泉協会理事である酒井谷平はこう語った。「おせじではない。 国賓にもなるべき温泉なれば十分注意して泉源を保護せねばならぬ」。そして、九州大学の引地興五郎博士は、「設備さえすれば世界第一位、下っても第二位の温泉たる泉質である」と。 (引用の表記は原文のまま) |
![]() |
|
![]() |
||
| やがて戦争が勃発・・・失意のまま亡くなった御沓重徳氏の夢の一部は、20年経って、後世の若者達の手で果たされました。平成元年ドイツ・バードナウハイム市やバートクロチンゲン市との友好親善関係の確立。ワインやホワイトアスパラガスといった物・文化の交流・・・。 長湯を訪れたドイツ人親子と長湯の先覚者の一人赤嶺明敏氏(昭和3年) ![]() |
||
田山花袋、種田山頭火、野口雨情など多くの文人墨客が訪れ、作品の中で描写される長湯の風景や情緒。昭和44年には『温泉学』で湯原浩三、瀬野錦蔵両氏から、昭和63年には花王(株)による全国炭酸泉調査報告により「日本一の炭酸泉」という称賛をいただきました。 |
||
長湯を訪れた野口雨情氏ら(昭和9年)![]() |
長湯を訪れた与謝野晶子・ 鉄幹夫妻ら(昭和7年) ![]() |
|
昭和10年前後には現在と大差ない旅館街が築かれた![]() |
||
長湯温泉に訪れていただいた多くの方々から授かった最高の賛辞が「日本一」だったのです。 長湯に住む私達が守るべき『日本一』には、温泉資源のみならず、自然環境や歴史文化、ホスピタリティなど多くの意味が込められているのです。 長湯温泉協会 会員一同 |
||
下の宣言書は昭和7年11月3日発表のもの![]() |
||
当ホームページへの リンク先はhttp://nagayu.fan-site.net/ にお願いします。
バナーの必要な方は
をご利用ください。