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長湯物語

読売新聞大分版に掲載された記事から  くじゆう連山の山懐を流れる芹川沿いに、
帯状に温泉宿がつらなる長湯温泉の物語。

「平成」と歩調を合わせるかのように、県内外の温泉客に愛される癒やし空間へと
変貌を遂げた町の歩みを紹介する。

花王の炭酸泉評価が町を動かし交流人口11倍

「長湯温泉の炭酸ガス濃度は、温度が40度を超えるものとしては極のて高く、他に類を見ない貴重な温泉であることがわかりました」−−。

 1987年(昭和62年)12月、旧直入町(現・竹田市直入町)の長湯温泉に届いた一通の手紙が、町を突き動かした。
 手紙を送ったのは入浴剤「バブ」で知られる花王(東京)の浴剤事業部長
製品開発の参考にしようと全国の炭酸泉を回り、成分分析を繰り返していた。
 大手メーカーのお墨付きを得て、町は2年後の89年(平成元年)11月に「全国炭酸泉シンポジウム」を企画。
このシンポジウムがきっかけとなり、温泉療養の先進地ドイツとの交流が本格化した。当時の岩屋万一町長(故人)は農業と観光の振興に並行して取り組む「農観併進」を掲げ、人口3000人余の山あいの町に活気をもたらした。

平成元年11月400名の参加者を得て開催した「全国炭酸泉シンポジウム」


平成元年11月25日、バートナウハイム市と友好親善関係を結ぶ


 「思ったことがどんどん実現して楽しかった」。町の経済課長だった直入総合支所長、岩屋千利さん(60)が当時を振り返る。
 町は、ドイツの国旗にちなんで町内の看板を赤、責、黒の3色で統一。「ふるさと創生基金」の一部を使って温泉の採掘調査をしたところ、3か所でわき水が見つかり、新たな観光スポットになった。
その後も温泉をテーマに国際フォーラムを開くなどユニークな取り組みを続け、「長湯の炭酸泉」は全国に知られるようになる。
 89年度に約7万6000人だった交流人口(観光などで一時的に町を訪れた人の数)は2006年度、11倍の約83万3000人へと驚異的な伸びを示し、県内はもちろん全国でも注目される温泉地の一つになった。
長湯温泉の特徴は、熱海や別府に代表されるスケールの大きな温泉地とは一線を画し、独特の泉質と千有余年ともいわれる歴史にこだわりながらドイツ流の温泉保養地を目指している点にある。

平成元年11月ドイツに渡った岩屋万一町長や伊藤ドクター等、第一次表敬訪問団
 
 交流人口の驚異的な伸びは、バブルに踊らされることもなく、地道にまちづくりに取り組んだ成果ともいえる。
 98年にオープンした公営温泉「温泉療養文化館 御前湯」の元館長で市商工観光課の課長補佐、林寿徳さん(50)は「町には92年ごろまで信号機もなかった。それが今や週末になると県外ナンバーの車ばっかりだ。まさに長湯の奇跡」と感慨深げに語った。

公営の温泉施設「温泉療養文化館御前湯」
温泉療養文化館御前湯
週末には県内外から訪れる温泉客でにぎわいを見せる

御沓垂徳さん「赤紙」に散った発展の夢

 70年以上も前に「長湯の炭酸泉」を全国区にしようと奮闘した人がいた。1933年(昭和8年)に長湯観光協会を設立した御沓垂徳さん(故人)だ。当時、温泉療養の拠点としてその名をとどろかせていだドイツのカルルスバードにあやかり、「東方日本の長湯温泉、西方ドイツのカルルスバード」というキャッチフレーズを考案。長湯の売り込みに奔走した。
 経営していた旅館「愛泉館」は30年ほど前に廃業したが長女の紀子さん(84)が浴槽を大切に守り続けている。
 「手を入れてごらん」紀子さんに促され、手を突っ込んでみて驚いた。かなりぬるめだが、炭酸飲料水を思わせる無数の泡がまとわりついて、しびれる感じがする。「入浴すると、浮くよ」。紀子さんが傍らで笑った。
 垂徳さんは農家の長男。紀子さんによると、大学進学を望んでいたが、跡継ぎということで郷里に残った。カルルスバードで温泉療養の基礎を学んだ九州帝国大(現・九州大)の松尾武幸教授を長湯に招き、研究をサポートした話はよく知られている。「外に出たいというエネルギーが、温泉への情熱に変わったんかもしれんね」
 松尾教授は近くに居を構え、動物実験をしたり、療養に訪れた患者のデータを収集したりして炭酸泉の効能を徹底的に調べ上げた。紀子さんも手伝ったそうだ。
 飲んで効き 長湯して利く長湯のお湯は 心臓胃腸に血の薬
     松尾教授は、研究の成果をこんな歌にして残した。
重徳さんは与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめ多くの文化人も長湯に招いた。
 芹川の湯の宿に来て灯のもとに 秋を覚ゆる山の夕立
         鉄幹


 湯の原の雨山に満ちその雨の 錆の如くに浮かふ霧かな
         晶子
 芹川沿いに建つ歌碑が、鉄幹夫妻の思いを今に伝えている。マスメディアが発達していなかった時代。垂徳さんは、歌人に詠んでもらうことで長湯を全国にアピールしようとしたのかもしれない。
 長湯を日本のカルルスバードにするという垂徳さんの夢は、自宅に舞い込んだ「赤紙」とともに砕け散る。日本全土が焼け野原と化し、歌人たちが詠んだ長湯の歌も人々の記憶から遠ざかっていった。重徳さんは77年に77歳でその生涯を閉じた。
 「先へ先へ行こうとしちょった人やった。いろいろ言う人がおるけど、炭酸泉だけは間違いないよ」。紀子さんは、重徳さんが広めようとした炭酸泉の素晴らしさを繰り返し口にした。

幼なじみ 自分の城≠ナ「いのちぎ」

 長湯温泉旅館組合を10年近く仕切っている組合長の首藤文彦さん(50)と、副組合長の伊東義文さん(50)は幼なじみ。平成になって自分の城≠構えた点でも共通している。
 首藤さんは、長湯ダムを見下ろす高台で「宿房 翡翠之庄」を営んでいる。
老舗旅館の4人兄弟の末っ子で、「洋服なんか、ほとんどがお下がり。とにかく自分のものが欲しかった」。
 大学在学中に訪れた長野県内のペンションで、オーナー夫妻が口にした「1年間の3分の2は笑って暮らしている」という言葉に刺激を受け、大学を中退。
調理師学校を出た後、北海道の旅館で修業を積み、フィリピンの一流ホテルで和食の料理長を務めた。
それでも「自分の店」に対するこだわりが消えることはなかった。    
 帰国後、町内に和食店を開いたが、土地は兄のもの。そこで近くの山林約6ヘクタールを340万円で買い取った。「10年早い」。周囲の反対をよそに、連日深夜まで、パワーショベルで山を切り開き、自分の店づくりを始めた。自ら設計を手がける中で、構想は「離れがある旅館」へと膨らんだ。
 1991年2月、念願だった宿房の開業にこぎ着けた。 「この建物には『初代』としての思いや汗がしみ込んでいる。2代目、3代目とは入れ込み方が撃つ」と語気を強めた。
 伊東さんは今年100周年を迎える老舗「丸長旅館」の4代目。Uターンして12年になる。
 幼いころ、旅館は祖父が営み、父親は教諭をしていた。
当時はほとんどが兼業旅館。大学を卒業後、家業を継ごうとしたが、父親から「旅館をやりたいなら、きちんとしたところに勤めてからだ」と反対された。
 結局、神奈川県の奥湯河原温泉にある旅館に就職。プロ野球巨人軍の長嶋茂雄・終身名誉監督らVIPもしばしば訪れる高級旅館で、一泊数十万円の部屋に予約が入るなどやりがいはあった。「旅館は人に情けを売る感情産業だと、とことん教えられました」
 ところが、帰省の度に同級生の首藤さんが店を開く話を聞かされ、35歳で一念発起。
板場修業をして古里に戻った。「おもしれえ(面白い)のが帰ってきたと、いろんな場所に引っ張られるようになった」と苦笑する。
 3年前、自分が思い描いた旅館へと全面的に改築した。「これで旅館が『いのちぎ』 (方言で「生計を立てること」の意味)になった」と表情を引き締めた。

ドイツとの交流 人とワイン、活発に往来

 昨年12月5日、竹田市内三つの中学校の2年生6人が、ドイツへ渡った。10日間のホームステイ。次代を担う子どもたちに国際的な視野を養ってもらおうと1996年に始まり、2001年を除いて11回目。
 直入中の吉野祐美さん(14)は、姉、兄もホームステイ経験者。「お姉ちゃんの友達の女の子に偶然出会い、向こうから声をかけてくれたことがうれしかった」と笑顔を見せる。
 6人は、中学校で授業を受けたり、温泉館を訪ねたりした。「言葉が通じなくても友達になれる」。ドイツ語は分からなかったが、片言の英語で夕食を作ったり、雪合戦をしたりして楽しんだ。帰国した6人の目は輝いていた。

平成3年7月、ドイツの友好親善都市で
クアハウスを楽しむ第2次訪問団員
 平成の19年間で、同市直入町の住民約2700人のうち、延べ300人がドイツを訪ねた。姉妹都市・バートクロツィンゲン市からも300人以上が町にやってきた。市の国際交流担当官ローランド・ビングレさん(60)は「日本文化や人々の温かさに触れることで、私の人生はとても豊かになった」と話す。

平成元年11月27日、バートクロツィンゲン市との友好親善関係が確立し
以来毎年3名の若者がこの町を訪れている
 国際交流の産物として広く知られるようになったのがドイツワイン。
94年に直入オリジナルラベル約3000本を直輸入し、98年からは、ドイツ語で友情を意味する「フロイント・シャフト」が造られるようになった。
 酒屋を営む塩手長利さん(60)は当初、「焼酎、日本酒以外の酒が売れるのか」といぶかった。しかし、年間販売量が1万2000本を超えることもあり、お花見でもワインが主流になった。
 町にはワインセラーを備えたコンビニエンスストアもある。経営者の佐藤誠一さん(59)はワインアドバイザーを目指している。「お客さんに教えられるようでは、悔しい。造り手が見えるワインを売りたい」と意気込みを語る。

平成9年、友好都市バートクロツィンゲン市から
直入町にブドウ畑が寄贈され、
直入ブランドのワインが誕生した。
 温泉街の広場で昨年12月23日、ドイツの食べ物などを販売する初めてのクリスマスマーケットが開かれた。
 住民ら約60人が参加。同年8月、国際交流員として着任、イベントを主催したゼンケ・グリェッツマバーさん(34)の持参した手作りのケーキが、人気を集めた。グリェッツマバーさんは「ドイツの雰囲気を味わってもらえてうれしい」と笑顔を見せた。
 会場には、ホームステイに参加した6人の中学生の姿も。ドイツとの交流を楽しむ歓声が、一帯にこだました。

「日本一」復活宣言 足元見つめ直す契機に

 「温度、ゆう出量、炭酸ガス濃度の『総合力』で突出している。長湯がやはり『日本一』」
 長湯温泉の旅館経営者らでつくる長湯温泉協会(首藤勝次会長)は昨年12月7日、県庁で記者会見し、「日本一の炭酸泉」を再宣言した。
 長湯温泉が「日本一」を掲げたのは1989年(平成元年)。87年に入浴剤メーカーから「他に例を見ない貴重な温泉」とお墨付きをもらったのがきっかけだ。ところが2006年8月、客から数値的な裏付けがないなどと指摘があり、県も自粛を指導した。
 同協会が実態を調べたところ、全国で「日本一」を名乗っている炭酸泉は6か所あり、長湯温泉は炭酸ガス濃度で中位。しかし、ゆう出量はトップクラスで温度も適温だった。これらの要素を総合的に評価すると日本一、というのが同協会の言い分だ。
 確かに炭酸ガス濃度が高くても、一定のゆう出量がなければ意味がない。温度も重要だ。熱をさますために水を加えたり、逆に加温したりすると肝心の成分が失われてしまう。同協会が「源泉かけ流し」にこだわる理由もここにある。
 地元の開業医、伊藤恭さん(52)は炭酸泉の効能を科学的に分析し、地域の振興につなげようと89年から臨床データを集めている。
 伊藤さんによると、炭酸泉につかると皮膚から炭酸ガスが吸収されて血液の流れがスムーズになる。体組織を修復するHSP(ヒート・ショック・プロテイン)と呼ばれるたんばく質の働きによるもので、整腸作用のほか心臓病やリウマチなどに効能が期待できるという。

 伊藤さんは「炭酸泉に含まれる自然界の二酸化炭素には血管の老化を防ぐ作用もある。その炭酸泉が、ここでは入浴可能な温度で大量にわき出している」と魅力を語った。
一通の手紙がきっかけとなり、長湯温泉の地元直入町の交流人口は89年度の約7万6000人から、06年度には11倍の約83万3000人へと飛躍的に伸びた。ただ、その中心は日帰り客だ。06年度の宿泊客は約16万人にすぎない。
旅館組合は団塊世代を主なターゲットに数日間の「プチ湯治」をPRするなど宿泊客の掘り起こしに懸命だ。そのさなかに持ち上がった「日本一」論争は、関係者が足元を見つめ直す良いきっかけになったようだ。再宣言にあわせ、良質の温泉資源を守る決意を明らかにした関係者の真剣なまなざしを見て、そう思った。
読売新聞社の 吉田記者と堀米記者が取材しました。